コーヒー中毒
です。
毎日、スタバで「キャラメルソースラテ/ショート」を頼んでる気がします。(キャラメルソースが¥0なので、一番安いラテをちょっとゴージャスにしようという細かい試み。)
なんで春・夏って、自販機に「あったか〜い」がないのかな、とさみしく思います。
末端冷え性なので、年がら年中「あったか〜い」飲み物が好きなのです。
「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで」身上つぶした小原昭輔さんになってしまいそうなほど、
あったかい布団、あったかい飲み物、あったかい風呂、をこよなく愛する身としては、
冷たい缶コーヒーはただの缶コーヒーだ!と強く訴えたいです。自販機の偉い人に。
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「現代アートの哲学」(西村清和・著)を読みました。
ぜんっぜん難しくはないんですが、一見まじめな本です。
でも、この本はおそらく隠れたエンターテイメントです。
どこにもエンターテイメントな要素はない(真面目な文体、面白みのかけらもない表紙、挿絵は白黒)のにもかかわらず、「この著者はまじめなふりして実はにやけながら書いてるな」と直感がいうのです。なにかがおかしい。
本文より。「キッチュ」の「寄生の美学」についてありがちな非難の是非を考えるところ。
「われわれにしても、テレビドラマにひどく感動して、ついつい涙を流したあとで、あわてて舌打ちしながら、こんなお定まりのお涙ちょうだいのメロドラマにまんまと乗せられてしまった自分自身に腹を立て、自分を安手のタイプとしてあつかい、わたしのなかのできあいの感性をくすぐった作者のいやしい思惑を非難することもあるだろう。」
…ないよ(笑
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キッチュ=寄生の美学、というのは面白いと思います。
共通の認識や想像力によって補われる美。すなわち物に内在していない美。
というのも、他人と共有される妄想というもので日常が成り立っているというのはどういうことなんだろうと常々思うからです。他人に共有される時点で妄想は現実とつながってしまってるわけで。
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心の中でほおづえをつきながらニヤニヤと読んでいたのですが、もうひとつ面白いなと思ったのは、「魅力」の部分。
「イギリスの美術批評家ジョン・バージャーは、他人をうらやましがらせる状態を特に『魅力』と呼ぶ。バージャーによれば、このような意味の『<魅力>は近代の産物である。これは油絵の全盛時代には存在していなかった。』」
ゲインズボロ「シドンズ夫人」のような肖像画の女性は気高く優雅でも魅力的ではないそうです。なぜなら、そうした特質が彼女の中で自己完結しているからで、彼女のようになりたいという他の人々の羨望に依存しているわけではないからだといいます。だから、肖像画の女性は「魅力」がなく、広告の美女は「魅力」的なのです。
「個人的で社会的な羨望が一般化した世の中になっていなければこのような"魅力"は存在しえない」
もしかしたら、肖像画も、現代だったら美術館にきたおばちゃんたちに「こんな生活、いいわねぇ」なんてため息つかれてるかもしれないですけどね。
広告がかきたてようとする対象であるところの、このような「羨望」は、一種の退行現象なのだそうです。
生後八ヶ月以降の幼児が自分の鏡像を自分と認識できず自分と他者を混同するようなことが、「羨望」、すなわち「自分の見ているものになろうとする」ことであると。
たとえば今日のような消費社会ではなかったら、「羨望」は今よりも少ないのかしら。
ちょっといいなと思ってしまいます。これも、「羨望」かな。
「羨望」が一般化していると、「この人ってこういう人なんだな」という想像力(というか自他同一視)が働きやすくなるとか、想像的伝記のようなものが増えるとかあるのでしょうか。
「私的全体性」ももしかしたら、こんな「羨望的想像力」に鍛えられた世代には、わりと受け入れやすいような気がするのです。


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