薬師寺展@上野
女友達2人といってきました。(20代の女子的には行き先が仏像っていうのもナンですが。)
月光月光菩薩像や聖観音が明るい光のもとでまじまじと背中までながめられるなんて、もう一生ないでしょう。少しでも好きならば、マスト・ゴー、だとおもいます。
展示スペースのつくり方が秀逸でした。天井の高い空間に、いっけん無造作に展示品がおいてあったり、スロープを上りながら、あるいはスキップフロアの上から、さまざまな角度から仏像を見られるのもいい。
みんな広い空間の中で、仏像の周りをうろうろしたり、見入ったりしていました。私たちはそれぞれの仏像のあたりで30分はうろついていたのではないかと思います。
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聖観音菩薩
今回の展示のMVPをあげるなら、私はこの像です。
凡人から見ても、何のフィルターもなしに美しいと思えるし、飽きない。
繊細でありながら緊張感がある、という言葉がぴったりなのです。
よい姿勢はヘソの下に力をいれる、とかなんとかいいますが、そんな感じ。ドンとした迫力の量感ある下腹部に力があります。(ただし出腹ではないのです。日光月光菩薩が、腹や首に深々とした線をもつのに対して、この観音様はいっさい肉体のしわがありません。胸が少しふっくらしている程度です。)
横から見ると、この腹はなおさら緊張感と量感をもって訴えてきます。
左右の均衡。金属の質感を残した柔らかくも固くもあるような布の動き。後れ毛も美しい髪。金属の張りがきもちがいい。
今まで(そんなに数多くの仏をみたわけでもないですが)、どちらかと言えば、金属より木の仏の方が美しいものがあるイメージがあったのですが、今回、見解をかえました。
木の仏のやわらかさは優しすぎるような気がします。布の表現など、消え入りそうにたおやかで、本当に綺麗だと思うことがありますが、乱暴に言ってしまうなら、ラファエロの聖母子とダヴィンチの聖母子、みたいな。
木の仏像は、どこまでも優しく甘く清らかなラファエロの聖母に似ています。
金属の仏像は、美しいながら厳しさと知性のあるダヴィンチの聖母に似ています。
金属という材料はすごいな…ということを考え、この仏像をつくった人のことばかり考えてしまったあたり、やはりうちらには信心がない。あるいは、暗い堂のなかから引っ張りだされて、スポットライトを当てられてしまうと、仏様もそう見えてしまうということかもしれません。
この仏像は、悲運の皇子、有間皇子の姿だという伝説があるそうですが、そういう俗な伝説もわきそうな位の美男子でもあります。
マンガ「天上の虹―持統天皇物語ー」をよんだ人(いるのかしら?)ならば「有間さま」と言われて、「ふふ☆」と思っちゃうでしょう。
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日光、月光菩薩
思ったより、ずっと大きかった。聖観音はだいたい等身大くらいでしたが、その二倍はあったのではないでしょうか。
ビッグネス。
二体いると、それだけですごい迫力。
右側の日光の方が、やや締まりのある優しいお顔をしています。
そして、体が本当に「肉」なことにびっくりします。
背中の方から、まるまるとお腹にきざまれたしわをながめる角度がいちばんすごい。二の腕のぶにぶにの触感まで見えるし、金属の光り方ではない鈍い光を放っている気が。しかも、三メートルを超す、肉の塊なのです。(グロい言い方ですが)
布やお顔に関しては、聖観音の方が巧くできていますが、この肉感はすごい。そして面白いポーズ。(すごいがに股であられます☆)
時代に関しては諸説あるようですが、この「肉感」を見る限り、聖観音よりは後につくられていそうだし、「聖観音は白鳳末期的、薬師三尊は天平初期的」という説にうなずきたくなります。
聖観音の方が一種の固さがあることは誰が見ても思うだろうし、だからこそ清らかなのかな、と思います。
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水煙
薬師寺東塔のてっぺんについている透かし彫り。展示してあったのは、そのレプリカです。(あたりまえですが。)普段は塔のそばに展示してあるもの。
高校時代、この水煙に関するエッセイを国語の時間に読んだ、と友達に言われて思い出し、気になって調べてみたら、
福永武彦の「飛天」というエッセイでした。
水煙に透かし彫りされているいくつかの飛天のうち、笛をふいている飛天について思いをめぐらし、古代の音楽の幻想をみるという内容でした。
でも、確かに飛天たちの姿を通して空を見るというのはロマンチックなところがあります。
水煙の 天つ乙女が 衣手の ひまにも澄める 秋の空かな 會津八一
そばに、でっかい露盤(水煙の下の部分)が無造作に展示されてるのが、面白い。細工のこまかさの点では対照的。この置き方は、なんだか大英博物館的です。
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吉祥天
最後だし、疲れてしまって、正直、あまり印象がなかったです。
二回いくならもう少しちゃんと見たいけれど。
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家に帰って、「古寺巡礼」を読み返したのですが、
今になれば、和辻さんが薬師寺でハァハァしているのはわからないでもない。
多少の比較文化論のような部分があって、
和辻さんによれば、
ギリシアの神像などは「人の姿から神を造り出した芸術」であり、聖観音などは「神を人の姿の内にあらわしめた芸術」である、といいます。
それが妥当かどうかはちょっとわからないけれど、
聖観音は写実的ではない、ということだと思います。人間ぽいけれど、本当の人間の体のプロポーションではないし、左右の均衡や線の単純な力強さのような、目に見えないプロポーションの秩序が先にあってつくっている気がする。彼(聖観音)を見る心は、建築を愛でる心ににています。
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こんなに出血大サービスをしてくれた薬師寺はすばらしいけれど、今、薬師寺は空っぽなんだろうな、と思うとちょっと寂しい。

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